M9.1の最大規模の南海トラフ巨大地震の想定震源域
この南海トラフ巨大地震による被害については、超広域に
わたる巨大な津波、強い揺れに伴い、西日本を中心に、
東日本大震災を超える甚大な人的・物的被害が発生し、
我が国全体の国民生活・経済活動に極めて深刻な影響が生じる、
まさに国難とも言える巨大災害になるものと想定される。
南海トラフの地震は、約90 – 150年(中世以前の発生記録では200年以上)の間隔で発生し、
東海地震、東南海地震、南海地震の震源域が毎回数時間から数年の期間をおいてあるいは時間を置かずに同時に3つの地震が連動していること
(連動型地震)が定説とされてきた。
一方で、慶長地震は南海トラフを震源とすることに異論が出されており、
南海トラフの地震は200年程度の間隔で発生すると考えるのが自然な姿であるという見解も存在する。
最も新しい昭和の地震は地震計による観測記録、それより古い地震は地質調査や文献資料からそれぞれ推定されており、
今後も同じような間隔で発生すると推測されている。
いずれもマグニチュードが8以上になるような巨大地震で、揺れや津波により大きな被害を出してきた。
なお、その後の研究により、地震が起こるたびに震源域は少しづつ異なることが分かった。
例えば、同じ南海道沖の地震でも安政の南海地震は南海道沖全域が震源域となったのに対して、
昭和の南海地震は西側4分の1は震源域ではなかったと推定されている。
また一方で東京大学地震研究所の瀬野徹三は、東海・東南海・南海といった3地震の分類を変える必要を挙げ、
南海トラフの東端の震源域(東南海の一部及び東海)と連動して静岡付近まで断層の破壊が進む「安政型」、
その震源域と連動せず静岡までは断層の破壊が起きない「宝永型」の二種類に分類することができるという説を唱えている。
1498年の明応地震以降は文献資料が豊富で発生間隔も100年前後で一定しているとされてきた(下の南海トラフの地震の発生領域(従来説)の図表)。
しかし、それ以前は東海道沖の地震の発生記録が無いほか、1361年正平地震以前の間隔は記録に欠損があり、
例えば13世紀前半と見られる津波や液状化の痕跡は複数の箇所から発見されており、
記録を補なうものと考えられている一方で、1096年永長地震以前は確かな証拠は無く津波堆積物の研究から100年と200年の周期が交互に繰り返されているとする説もある。
他方、地震連動の発生の様子をプレートの相対運動やプレート境界の摩擦特性からシミュレーションする試みもあり、
連動性は再現されたが地震発生間隔などが歴史記録と一致しない点もある
南海トラフ全域をほぼ同時に断層破壊した地震は規模が大きく、宝永地震は他の地震よりもひとまわり大きいM8.6とされてきた。
21世紀に入ってからの研究により、この宝永地震と同じ規模の津波堆積物は300 – 600年間隔で見出される事が分かった。
さらに、宝永地震よりも巨大な津波をもたらす地震が約2,000年前に起きた可能性がある事も分かった。
また、昭和南海地震でも確認されたように、単純なプレート間地震ではなく、
スプレー断層(主な断層から分かれて存在する細かな分岐断層)からの滑りをも伴う可能性も指摘され、
南海トラフ沿いには過去に生じたと考えられるスプレー断層が数多く確認される。
一方、震源域が広いと顕著になる長周期地震動の発生も予想され、
震源域に近い平野部の大都市大阪や名古屋などをはじめとして高層ビルやオイルタンクなどに被害が及ぶ危険性が指摘されている。
これらに関連して、古文書にはしばしば半時(はんとき、約1時間)に亘る長時間強い振動が継続したと解釈できるような地震の記録がみられるが、
これは大地震に対する恐怖感が誇張的な表現を生んだとする見方もある一方、
連動型地震のように震源域が長大になれば破壊が伝わる時間も長くなり、
そこからまた別の断層が生ずるなど長い破壊時間をもつ多重地震となって、
本震後の活発な余震なども相まって実際の揺れを表現したものとする見方もある。
以上のように南海トラフにおける海溝型地震は、一定の間隔で起こる「周期性」と同時に起こる「連動性」が大きな特徴となっている。
さらに、南海トラフは約2000万年前の比較的若いプレートが沈み込んでおり、
薄くかつ温度も高いため低角で沈み込みプレート境界の固着も起こりやすく、
震源域が陸地に近いので被害も大きくなりやすい。
南海トラフにおける、フィリピン海プレートとユーラシアプレート(アムールプレート)
とのプレート間カップリングは100%に近くほぼ完全に固着し、
1年に6.5cmずつ日本列島を押すプレートの運動エネルギーはほとんどが地震のエネルギーとなっていると考えられている。
しかし紀伊半島先端部の潮岬沖付近に固着が弱く滑りやすい領域があり、1944年昭和東南海地震、
1946年昭和南海地震はいずれもこの付近を震源として断層の破壊がそれぞれ東西方向へ進行したことと関連が深いと見られている。
この地震により発生するとされる災害を「東日本大震災」に倣い「西日本大震災」と呼称する場合がある。
2011年3月の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)発生後南海トラフ巨大地震への懸念が浮上したことを受けて、
日本政府は中央防災会議に「南海トラフ巨大地震対策検討ワーキンググループ」を設けて対策検討を進めた。
同ワーキンググループは2012年7月にまとめた中間報告において、
南海トラフで想定される最大クラスの巨大地震を「東日本大震災を超え、国難ともいえる巨大災害」と位置づけている。
土木学会が2018年6月7日、発生後20年間の被害総額が最大1410兆円に達する可能性があるとの推計を発表した。
地震の発生確率[編集]
発生確率等の評価(地震調査委員会)
領域 |
様式 |
2018年1月1日時点 |
規模 (M) |
30年以内の発生確率 |
南海トラフ |
プレート間地震 |
M8 – 9 クラス |
70% – 80% 程度[21] |
次に発生する可能性のある地震として、従来よりも幅広くM8 – 9クラスの地震を対象としている。
高知県室津港の歴代南海地震(宝永・安政・昭和)における隆起量と、発生間隔との関係に基づく時間予測モデルをもとにすると、
次回のM8クラスの地震は昭和南海地震から88.2年後と推定され、これをもとに上記の確率が計算された。
次に最大クラス(M9超)の地震が発生する可能性もあるが、その発生頻度は(古いものも含めて)
100 – 200年間隔で発生している地震に比べて「1桁以上低い」とされた。
歴史
歴史記録からは、南海トラフ沿いの東半分および西半分の震源域が、時間差、又はほぼ同時に連動して発生したと推定されるが、南海トラフの地震の内、機器観測の記録が存在するのは昭和地震のみであり、詳しい歴史史料が残り、ある程度震源域を特定できるのは江戸時代以降の安政地震および宝永地震までである。
これより前に発生した地震については、史料も乏しく断片的なものに限られ、その震源域については諸説ある。
また、慶長地震は南海トラフの地震としては疑わしいとする意見が出され、康和地震も南海道沖の地震とする説に疑義が出されている。
古村(2015)は、南海トラフの地震の発生時期を見直し、確実なものに限ると、東海道沖側では平均180年間隔、南海道側では平均252年間隔となるとしている(下の南海トラフの地震の発生領域(見直し)の)図表。
従来は震源域が、南海地震・東南海地震・東海地震、或いはA(土佐海盆)・B(室戸海盆)・C(熊野海盆)・D(遠州海盆)・E(駿河湾)のセグメントに区分されてきた。
なお、南海地震はA(土佐海盆)・B(室戸海盆)、東南海地震はC(熊野海盆)・D(遠州海盆)、東海地震はE(駿河湾)における地震に概ね該当する。
しかし、宝永地震はA(土佐海盆)の南西側に位置する日向海盆における日向灘地震も連動した可能性が指摘され、また単なる3連動地震ではない別物の巨大地震との説も浮上している。
1498年の明応地震は南海地震と日向灘地震が連動した可能性も指摘されている。
南海トラフの地震の発生領域(見直し)[25]
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Z
日向海盆 |
A
土佐海盆 |
B
室戸海盆 |
C
熊野海盆 |
D
遠州海盆 |
E
駿河湾 |
地震サイクルの再来間隔 |
古村(2015)による
発生領域
■:確実
■:可能性がある |
684年白鳳地震 |
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– |
887年仁和地震 |
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203年 |
1096年永長地震 |
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209年 |
1361年正平(康安)地震 |
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265年 |
1498年明応地震 |
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137年 |
1707年宝永地震 |
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209年 |
1854年安政地震 |
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147年 |
1944/1946年昭和地震 |
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90(92)年 |
注)1605年の慶長地震は小笠原近海の遠地地震として「見直し」の表からは除外している。
年表
地震調査委員会(2013年)により巨大地震の震源域とされた南海トラフ地域を震央とする地震のうち、東海地震・東南海地震・南海地震いずれかが発生したことが確実とされている9サイクルの巨大地震を示した。参考として、その前後に発生した西南日本内陸の大地震や火山噴火、および近隣地域のプレート間巨大地震のほか、しばしば地震の前後に発生する富士山や伊豆諸島の火山噴火を記した。
- 出典:日付・震源・規模・震度など被害以外の要素については、1922年以前は日本地震学会、1923年以降は気象庁による。被害については、文章毎に注記しているが、主に日本地震学会と地震調査委員会(2013年)を参考として他の出典から加筆した。
- 地震発生年月日の欄の日付は、慶長地震以降はグレゴリオ暦、明応地震以前はユリウス暦(カッコ内はグレゴリオ暦)。
地震発生年月日 |
震央地名 |
北緯
(°N)[注 2] |
東経
(°E)[注 2] |
深さ
(km) |
規模
(M) |
最大
震度 |
概要 |
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- 紀元(西暦)頃(弥生時代) – M9級の超巨大地震の発生の可能性が疑われている。高知県土佐市宇佐の海岸から200m以上離れた蟹ヶ池で、津波による宝永地震の厚さ50cm前後をも超える堆積物が発見されている[10][41]。
- 允恭年間頃(5世紀前半) – 静岡県坂尻遺跡および大阪府久宝寺遺跡の液状化跡、天理市赤土山古墳に地滑り跡から、この時期に南海トラフ巨大地震が発生したとする説がある[42]。
- 684年11月26日(11月29日)(天武13年10月14日) – 白鳳地震当日、伊豆諸島で噴火があり島が生じたとの記録がある[43]。
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684年11月26日(11月29日)(天武13年10月14日) |
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81⁄4
Mw 8 – 9[44] |
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白鳳地震(天武地震)。『日本書紀』の記録は南海道沖の巨大地震を示唆するものであるが[43]、同時期に東海道沖でも巨大地震が発生したと地質調査により推定されている[32][42][45]。山崩れ、家屋、社寺の倒壊多数。津波の襲来後、土佐で船が多数沈没、田畑約12平方キロメートルが沈下し海となったと記録されている[46]。地震の前後に伊予温泉や紀伊の牟婁温泉の湧出が止まった記録がある[29][39]。 |
約203年間 |
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887年8月22日(8月26日)(仁和3年7月30日) |
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33.0 |
135.0 |
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8.0 – 8.5 |
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仁和地震。『日本三代実録』の記録は南海道沖の地震を示唆するが、同時期に東海道沖でも地震が発生したと地質調査により推定されている[14][32]。五畿七道諸国、京都で民家、官舎の倒壊による圧死者多数。特に摂津での被害が大きかった。余震が1か月程度記録されている[29][39]。 |
約209 – 212年間 |
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1096年12月11日(12月17日)(嘉保3年11月24日) |
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8.0 – 8.5 |
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永長地震。東海道沖の巨大地震と推定される[45]。皇居の大極殿に被害があり、東大寺の巨鐘が落下[29][39]、近江の瀬田の唐橋が落ちた[32]。津波により駿河で民家、社寺400余が流失。伊勢の安濃津でも津波被害があった[29][39]。2年2カ月後の康和地震との時間差連動とみられ[29]、合わせて永長・康和地震と呼ばれる。 |
1099年2月16日(2月22日)(承徳3年1月24日) |
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8.0 – 8.3 |
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康和地震。南海道沖の地震とする説がある[45]。大和の興福寺で門や回廊に被害があり、摂津の天王寺でも被害があった。津波そのものの記録はないが、土佐で田畑約10km2が水没したという記録[51]から津波の可能性があるとされる[29][39]。土佐の沈降記録の日付は康和2年1月X4日。2年2カ月前の永長地震との時間差連動とみられ[29]、合わせて永長・康和地震と呼ばれる。石橋(2016)は、本地震は南海道沖の地震では無く、永長地震が東海道沖の地震に加えて南海道沖の地震をも含む連動型地震であるとする可能性を唱えている[52]。 |
約262 – 265年間 |
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1361年7月26日(8月3日)(正平16年、康安元年6月24日) |
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33.0 |
135.0 |
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81⁄4 – 8.5 |
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正平地震(康安地震)。『太平記』の記録は南海道沖の地震を示唆するものである。摂津四天王寺の金堂転倒し、圧死5人。そのほかにも畿内の諸寺諸堂に被害が多かった。摂津・阿波・土佐で津波被害があり、特に阿波の雪(由岐)湊で1700戸が流失、死者60人余り。湯ノ峰温泉の湧出が止まった記録がある。同月に伊勢神宮の被害記録もある[59]。宇佐美(2003)は震源域を南海・東南海の両領域としている[29][39]ほか、発掘調査により同時期に東南海地震が発生したとされる[32]。これに前後して多数の地震記録があり、6月16日-8月24日の約10回ある。石橋・佐竹(1998)はこの中の7月24日(8月1日)の地震を東海道沖の地震ではないかと指摘している[33]。 |
約137年間 |
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1498年9月11日(9月20日)(明応7年8月25日) |
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34.0 |
138.0 |
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8.2 – 8.4 |
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明応地震。寒川(1997)[32]や地震調査委員会(2013)は東海道沖の巨大地震であり前後の近い時期に南海道沖の地震が別に発生した可能性が高いとしているが、宇佐美(2003)は南海道沖の地震の同時発生の可能性が高いとしている[34]。紀伊から房総までの沿岸と甲斐で揺れが大きく、熊野本宮の社殿倒壊も記録されているが、揺れによる被害は比較的軽かったともされている。一方津波被害は大きく、伊勢・志摩で死者1万人、駿河の志太郡で死者2万6千人(260の誤りとする説もある)など、紀伊から房総にかけての広い地域に津波が達した。湯ノ峰温泉の湧出が1ヶ月半止まったという記録がある。京都では余震が2カ月近く続いたという[29][39]。この津波により浜名湖が海と繋がった。関東では宝永地震よりも津波被害が大きい一方、四国や九州では津波記録がなく詳細は不明。高知県四万十市のアゾノ遺跡で噴砂が流れ出した直後から誰も住まなくなった。遺跡の調査から激しく揺れたことが分かり、徳島県でも同年代の地震痕跡が見つかっている[64]。羽鳥(1975)[65]や相田(1981)[66]は南海トラフより沖合の銭洲海嶺付近を震源とする地震(アウターライズ地震)であった可能性を指摘している[34][67]。 |
約106年間 |
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1605年2月3日(慶長9年12月16日) |
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a)33.5
b)33.0 |
a)138.5
b)134.9 |
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7.9または
7.9 – 8.0[71] |
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慶長地震。八丈島、浜名湖、紀伊西岸、阿波、土佐の各地で津波による家屋流出や死者が記録されている。外房や九州南部でも津波被害があった可能性があるとされる。地震調査委員会(2013)のまとめによると、地震動による被害は信憑性のある記録が無く、地震動があったとしても他の南海道沖・東海道沖の地震に比べて弱かっただろうと推測されている。地震調査委員会は2001年の報告書では南海トラフで発生した津波地震としたが、2013年の報告書では南海トラフ以外で発生した地震による津波、あるいは遠隔地津波である可能性も否定できないとした[29][35][39]。石橋克彦(2013)は、伊豆・小笠原海溝の一部が震源である可能性を提唱している[72]。この表の震源は宇佐美(2003)によるが、今村(1943)[73]、飯田(1981)[74]なども同様に南海道沖と東海道沖を震源域と考えた。一方、大森(1913)[75]は房総沖を震源と考え、河角(1951)[76]、羽鳥(1975)[65]は紀伊半島沖と房総沖、相田(1981)は東海道沖と房総沖を震源域と推定している[66]。この地震の他にも、慶長の約20年間には被害地震が多発した(慶長大地震参照)。 |
約103年間 |
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1707年10月28日(宝永4年10月4日) |
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33.2 |
135.9 |
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8.4
8.6[71]
Mw 8.9[79] – 9.3[80] |
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宝永地震。東海道沖と南海道沖の巨大地震が同時に発生したとされていた[81][82]。石橋(1977)[83]および相田(1981)[66]は駿河湾も震源域に含まれていたとしているが、震源域が駿河湾奥までは達していないとする説も出され[2][84]、さらに、駿河では翌日に発生した富士山西麓の地震の被害が含まれ過大評価と考えられることから駿河湾付近(東海地震の震源域)が震源域でなく、銭洲方面へ南下させるとする説(松浦ほか、2010,2011[27])があるほか、九州東岸の津波が高い事から日向灘地震も同時発生したという説(古村ほか、2011[26])もある[85]。東海道、伊勢湾岸、紀伊半島を中心に、九州から東海北陸までの広範囲で揺れによる家屋倒壊などの被害。土佐で家屋流失11,000棟以上・死者1,800人以上となったのをはじめ、九州から伊豆までの太平洋岸と大阪湾・伊予灘で津波被害。死者2万人余、倒壊家屋6万戸余。高知で地盤沈下、室戸岬や串本などで隆起が見られたほか、道後温泉など複数の温泉の湧出停止が記録されている[29][39]。Mw9以上の可能性も指摘されている[80]。 |
約147年間 |
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1854年12月23日(嘉永7年11月4日)[注 4] |
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34.0 |
137.8 |
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8.4
Mw 8.6[88] |
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安政東海地震。東海道沖の巨大地震。石橋(1981)[89]および相田(1981)[66]は、遠州灘沖に加えて駿河湾に震源断層モデルを推定している。宇佐美(2003)によると各地の推定震度は、近畿地方と中部地方の大部分及び関東地方の一部で震度5弱以上、志摩半島、中部地方内陸部、駿河湾で震度6弱以上、遠州灘沿岸では震度7の可能性もあるという。四国東部から房総半島にかけて津波があり、特に潮岬から渥美半島までの地域では昭和東南海地震の2倍近い高さで、三重県では10mに達したところがあった[37]。家屋の倒壊・焼失3万軒、死者2-3千人と推定されている[39]。32時間後の安政南海地震との時間差連動と見られ[37]、合わせて安政地震と呼ばれる。 |
1854年12月24日(嘉永7年11月5日)[注 4] |
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33.0 |
135.0 |
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8.4
Mw 8.7[注 5] |
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安政南海地震。南海道沖の巨大地震。宇佐美(2003)によると各地の推定震度は、九州東部から四国、中国地方、近畿地方西部までの地域で震度5弱以上、高知、徳島、兵庫、和歌山の沿岸部で震度6弱以上。九州東部から紀伊半島にかけて津波があり、四国太平洋岸と紀伊半島南西岸で4-8mに達した。なお、紀伊半島より東側の被害の様子は東海地震との区別が難しく不確実[37]。高知県久礼で16m、和歌山県串本で15mなど高い津波の記録もある。死者は数千人と推定されている[39]。余震は9年間記録されている[90]。32時間前の安政東海地震との時間差連動と見られ[37]、合わせて安政地震と呼ばれる。これら2地震の他にも、安政の7年間には被害地震が続発した(安政の大地震参照)。 |
約90 – 92年間 |
- 1854年12月26日(安政1年11月7日)豊予海峡地震 – M7.3-7.5、伊予西部と豊後を中心に被害があったが、安政南海地震の40時間後であり被害の区別が難しいとされる[39]。
- 1855年3月18日(安政2年2月1日)飛騨地震 – M63⁄4、死者2人。
- 1855年10月2日(安政2年11月11日)安政江戸地震 – M6.9、死者約4,000人、江戸市内で1万4千棟が倒壊・焼失[39]。
- 1857年10月12日(安政4年8月25日)伊予・安芸で地震(芸予地震) – M71⁄4、死者5人[39]。
- 1858年4月9日(安政5年2月26日)飛越地震 – M7.0-7.1、土砂崩れや地震湖の決壊による被害が目立つ。死者203人[39]。
- 1891年10月28日 濃尾地震 – M8.0 日本国内観測史上最大の内陸地殻内地震。死者7,273人、負傷者17,175人[39]。
- 1941年(昭和16年)11月19日 日向灘で地震 – M 7.2、死者2人、九州東岸や四国西岸で最大1mの津波[39]。
- 1943年(昭和18年)9月10日 鳥取地震 – M 7.2、死者1,083人[39]。
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1944年(昭和19年)12月7日 |
三重県南東沖 |
33.573 |
136.175 |
40 |
7.9
Mw 8.2[91] |
6 |
昭和東南海地震。東南海地震。揺れや津波の範囲がこれ以前の「東海地震」よりも西寄りで狭く、駿河湾付近は震源域にならなかったとされている。このことが、昭和期に駿河湾のみを震源とする東海地震の発生が危惧された原因となった。紀伊半島から伊豆半島にかけての沿岸に津波があり、羽鳥(1979)によると紀伊半島東岸で6-9mに達した[38]が、遠州灘では1-2mであった。被害は東海地方が中心であり、飯田(1977)によると死者・行方不明者1223人、住家全壊約1万8千棟・半壊約3万7千棟・流失約3千棟と記録されている。戦時中のため当時は詳細不明で、後になってから被害状況が分析されている[39][92]。御前崎市、津市で震度6、中部・近畿の計8県で震度5を観測[40]。
約2年後の昭和南海地震との時間差連動と見られ[38]、合わせて昭和地震と呼ばれることがある。 |
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1946年(昭和21年)12月21日 |
和歌山県南方沖 |
33.935 |
135.848 |
24 |
8.0
Mw 8.4[93] |
5[注 6] |
昭和南海地震。南海地震。九州から房総半島南部にかけての太平洋岸に津波があり、四国と紀伊半島では4-6mに達した[38]。主に九州から近畿までの西日本で被害。死者1330人、家屋の全壊約1万2千棟・半壊約2万3千棟・流失約1500棟・焼失約2600棟と記録されている。室戸や潮岬で隆起、須崎や甲浦で沈下が観測されているほか、高知市付近で田園15km2が水没した[39]。中国・四国・中部・九州の計12県で震度5を観測[40]。
約2年前の昭和東南海地震との時間差連動と見られ[38]、合わせて昭和地震と呼ばれることがある。 |
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- 1948年(昭和23年)4月18日 和歌山県南方沖で地震 – M 7.0。
- 1948年 6月15日 紀伊水道で地震 – M 6.7、死者2人[39]。
- 1948年 6月28日 福井地震 – M 7.1、死者・行方不明者3,769人[39]。
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予想と研究[編集]
大分県佐伯市の間越龍神池では3300年前までの地層中に8枚の津波堆積物が発見されており、特に大規模な地震のみが津波堆積物を残したと考えられる。
有史以来ではこのうち3枚であり、新しいものから1707年宝永地震、1361年正平地震、684年白鳳地震に対応すると推定されている。
また、高知県土佐市蟹ヶ池で見つかった津波堆積物から、宝永地震の時の砂の厚さ以上の粗粒な砂を運ぶ津波が約2000年前に発生していたと推定されており、M9クラスの超巨大地震による可能性が指摘されている。
さらに、上記以外に887年仁和地震でも津波の記録から数値を復元した結果、M9クラスの超巨大地震であった可能性も推定されている。
この他、南海トラフから琉球海溝まで全長1000kmにも及ぶ断層が連動して破壊されることで、非常に細長い領域におけるM9クラスの連動型地震、あるいはM9クラスの二つの超巨大地震が連動して発生する可能性も近年では指摘されている。
この場合の震源域の全長は2004年のスマトラ島沖地震に匹敵するもので、過去には平均1700年間隔で発生していたとされる。これは御前崎(静岡県)、室戸岬(高知県)、喜界島(鹿児島県)の3カ所の海岸に残されていた、通常の南海トラフ連動型地震による隆起予測と比べて明らかに大きな隆起地形から推定されている。
2012年1月、東京大学と海洋開発研究機構の研究グループは、紀伊半島沖の東南海と南海の震源域にまたがる長さ200km以上、高さ500m-1kmの分岐断層を発見したと発表した。これは東南海・南海の過去の連動の証拠だとされている。また、地震の際に津波を増幅させるもので、同時に活動した場合に大きな津波が発生する可能性があるとされている。