ここ数日、野生の生き物との接触をするという機会がありもう一度、自然界とは何か、人間界とは何かを考えキッカケがあった。

そしてそれは同時に、保護というものと愛護という言葉があることを考え直すことができた。
私の定義では保護とは自然界のルールを守ることであり、愛護は人間界でのルールを守ることである。

これを例えてみると、

自然界には食べるものと食べられるものがあり一定数が互いに受容循環の中で存在している、

それと同時に互いに食べるものとしてまた食べられるものとして生死を平等に共有しているということである。

自然界では、何かの事故に遭い大けがをすればその個体は自らの死を覚悟し受け容れるしかなく、

また自分の運命もまたその繋がりの一部としての役割を果たすことで命を丸ごと全うしていると言えるのである。

それが人間が踏み込むことを犯した自然破壊というものである。

自然とは本当の意味で聖域なのです。

しかし人間界はこれとは異なり、

人間が生息を続けていくために食べるものは食べるものとして栽培や養殖をおこない動植物も人間生活の需要と供給によって存在させている。

これを自然だと思い込んで保護するとしただ単に自然に任せていればぐちゃぐちゃの無法地帯になって人間界は争いが尽きず強いては人間界を安定維持していくことができなくなる。

人間には、人間界を維持していくための法があり掟があり人の道に従って互いに助け合っていかなければ人間界というもの自体を成り立たせることができなくなるのです。

人間界のルールは自然界では使えないように、自然界でのルールも人間界では使えません、

それは人間というものが自然から離れて人間界のみで世界を構成しているからともいいます。

はっきり言えば、私たちが自然界から離れて人間界というものを構成しているのだから今私たちが自然自然と呼んで自然と思っているものは実は本来の自然ではないということなのです。

もう一つのたとえ話をすれば、人間が飼っている動植物とは、自然かというとそうではありません。

それは人間が飼うからであり、うさぎであっても犬であっても猫であってもニワトリであっても、

それはその主は誰かといえば、人間だからです。

この人間というものが飼っている、または栽培するというのは人間界として行っているのであり自然が行うのではありません。

そうではなく、自然で生きている野生の動植物とは自然そのものであるのです。

それは主はそれぞれであり野犬、野鳥、野兎、野生は自然の中で存在していて、

これを人間界に連れてくれば主は人間になるのだから自然ではいられないのです。

つまり自然の中で野生でいるものは、自然に野に発生しているのであり人間が何かをしたわけではないのです。

この観点で物事を観れば、自然保護というものと自然愛護とは完全に違います。

如何に自然が壊れるからとエコ活動をしているのは人間界における愛護の観点であり、

本来自然とは一定の距離感を保ち自然を邪魔しないことの方が自然界の保護の観点であるのです。

動物を可哀そうだからと、どんどん野生であるものを人間界に連れてきてペットとして飼っているのはまったくの勘違いであり、

本来は神社などの杜をなるべくたくさん遺し、動物たちが自然界で生きていけるように保護していくことの方が価値があるのです。

遺産というのは、どれだけかつての自然を遺しているかということなのです。

言い換えれば、自然界あっての人間界が、

その自然界自体を乗っ取ろうとする行為に対してそれだけいけないと自然の遺産を遺そうという取り組みであるのが本質であろうと私は思います。

自然で生きているものを人間の都合ですべて飼うということは絶体にできません。

そしてもしもそれでも人間界を維持していくために人間界で共に生きるように選択した動植物は人間が正しく愛を持って見守る責任があるのです。

現代では本当にたくさんの飼い犬が捨てられたりしていますがあれは人間界のの掟に反しています。

一度人間界で飼ったものは最期まで責任をとると決めたはずなのに経済的理由が優先されその契約を人間の方が先に放棄するというのはおかしな話なのです。

私からすれば犬が野犬になるのではなく、人間界に絶望して復讐しているのです。

ああいうことをやるから、この人間界では争いが尽きずいつまでも命を奪い合う痛ましい事件がなくならないのです。

人間は、本来、皆が仲良くして暮らしていくことで成り立ちます。人道とは、人間が共に生きていくものに感謝しながら助け合って存在さしめるのです。

今のように間違えば、そのうち人道に反したことから私たちは学び直すことになります。
少しでも早く気づくためにも、この自然界と人間界はちゃんと定義されるべきだと思います。